住む場所を選ぶ ー 友人の近くに住むこと

来週引越しで、住む場所について普段以上に考える日々です。

まだどの家にするか迷っている時に、「友人は近くに住んでいる?これから寒い冬が来るんだから、一緒にお茶を飲める友人が近くにいるところがいいよ」と冬の厳しいドイツ出身の友人に言われました。私も無意識にそんな場所を選んでいて、あらためて大事だよね、と。

大好きな『クリエイティブ都市論』では「親しい人から離れて住むことの喪失感は1000万円ほど」という研究が紹介されています。著者は「人間関係に適正な値段を付けることが可能かどうか、私にはわからない。」としていますが、親しい人が近くにいることがいかに大きなことなのかがわかる。

ロンドン大学の経済学者ナッタブド・ポウドサベーは、二〇〇七年に興味深い研究を行っている。その内容はアンケート調査によって、頻繁に会う友人や親戚の金銭的価値を試算するものだった。彼によると、友人や親戚と毎日欠かさず会えることは一〇万ドル以上の追加収入に匹敵するという。たとえば、家族や友人に定期的に会える場所から、はるか遠くへ引っ越したとする。その喪失感は一三万三〇〇〇ドルに相当するというのだ。

p104 第2部 場所の経済学 - 第5章 移動組と定着組

たしかにこれまでの引越しを見ても、今回を含め、友人が近くにいるかが決め手で場所を選んだことがありました。家から徒歩5分のおいしいタイ料理屋さんが決め手だったこともあったけれど … w

何より京都に戻ったっていうのがそうかもしれない。自転車に乗って気軽に友人のところに遊びに行けない東京って、何もかもあって華やかかもしれないけれど、一方で不幸だと思う。夏から読みかけている『東京プリズン』(個人的には読みにくいと感じていてあまりおすすめしない)という小説に以下のような一節があって、小学校高学年から東京の郊外、学校や塾は都心にあって、友人は東京圏に離散していて … という環境で育った私は、これはとてもよく「東京」というところを表していると思う。

東京の中で、結婚して夫と住む私の家から母の家まで、約二時間かかる。バブルで土地の値段が上がり続け、動線が伸び続け東京圏が拡大し続けるときに家を失い、なんとか代わりの住み処を見つけるとは、そういうことだった。土地の値段が上がり続けるなど現実的に考えてありえない、少し待とう、などというまっとうな思考は、渦中に巻き込まれていないときにできることだ。(中略)
東京の拡散は、地下のあのばかげた高騰によって加速され、暴落によって固定されたのかもしれなかった。残ったのは、日本人からは最終的に流動性が失われた、そんな感じ。バブルを経て私の家族は東京の西と東に離散した。二十年以上そうだし、その件については二十年以上思考停止だ。とりとめなくとめどもなくアメーバ状に広がろうとする不思議な意思、それこそが、東京かもしれないが。…

『東京プリズン』 p73

昨日読み終えた『ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉』で言う「自己再生のコミュニティー」が遠くなって、アクセスしにくくなっちゃっている感じ。結果、孤独を味わうのかな。日本に帰って来て思うのは、カフェでひとりでいる人多いんじゃないかな … ということ。みんながみんなおしゃべりしている必要はないし、家で友人とお茶を飲む必要もないのだけれど、なんかあまり健康じゃないなあと感じます。

暗いエントリーになっちゃったな。。。何が言いたかったかというと、住む場所を考える際にきらびやかさや、便利さなどに目が行ってしまいがちですが、友人の近くに住むのって大事ですよね、ということでした。

# あと、静かなところで、図書館や本屋さんが walking / biking distance にあるってのも個人的にはとても大事。光が入るのも大事だな。空港も近いといいな。むむむ、結構いっぱいある …