『kotoba (コトバ)』2011年 01月号 ― スロー、ロハス(笑)ではなく、について考える

友人に教えてもらい、先日、「低炭素経済」を考える学習会に参加してきました。

【イベント紹介】セルジュ・ラトゥーシュ研究者の中野佳裕さん(立命館大学)をお呼びして「低炭素経済」を考える学習会「今、必要なのは『緑の成長』か?『脱成長』か?」(12月23日、京都) - Drop the Debt ! ジュビリー関西ネットワーク(Jubilee Kansai Network)

雑誌『kotoba (コトバ)』の2011年 01月号に、当日メイントピックだった<脱成長>に関する記事が掲載されていると聞き、読みたい読みたいと思っていました。やっとこさ読めました。

kotoba (コトバ) 2011年 01月号 [雑誌]

kotoba (コトバ) 2011年 01月号 [雑誌]

タイトルにも書きましたが、<脱成長>なんていうと、「スローキターwww」「ロハスガクガクブルブル」と思う方も少なくないでしょう。私はいわゆるスローやロハスは苦手です(^^;

訳語の当て方がすごく難しく、きっとこの言葉に落ち着いていることは、冒頭に書いた勉強会でも察することができ、逃げのスローやロハスを越えた何かがあるんじゃないかなと私は<脱成長>ポジティブに受け止めています。何となく日常生活で、現代社会の生活に疑問を感じていて、京都暮らしが気持ちのいいことからも<脱成長>の必要性を感じます。

ふむふむと思った記事のタイトルを列挙。

それぞれをちょいとみていきましょう。長くなりますが、自分の備忘録も兼ねて。よろしければ飲用部分だけでもざざっとお付き合いください(^^)

◆ 「<脱成長>とはどういう理論なのか? ― ヨーロッパ批判精神の結晶として」 文・中野佳裕

<脱提唱>を提唱する経済哲学者(かっこいい肩書き!)のセルジュ・ラトゥーシュさんの著書『経済成長なき社会発展は可能か』を訳したのが、この記事を書いた中野佳裕さん。

特に疑うことなく、私たちが日々経済ベースで物事を考えていることに、疑問を呈する記事。読みながら線を引いた部分を抜粋してみましょう。ちょいと宗教的に見えるかもしれないし、実際の打ち手というよりは哲学や思想を提唱しているだけとも否定されかねないですが、すべてとは言えなくても、共感できる部分はあるはず。

経済がこのように一人ある気している最大の原因は、わたしたちの精神が経済学の価値観に支配されていることにある。

この状況を克服するためには私たちの生活を支配する経済中心の価値観を根本から問いただし、世界をこれまでとは異なる形で見つめるための新しい思想と実践を発明し、学んでゆく必要がある。

(<脱成長>の原語decroissanceが「減少する」「縮小する」という意味を持つdecroitreから派生した語であるという一節に続き…)しかし、decroissanceにはもう一つの意味がある。フランス語の文脈では、decroitreという動詞は「あるものに対する信仰から離れる」という意味のdecroireと発音が近いことから、ラトゥーシュは、decroissanceを「無限の経済成長を求める信仰から自由になる」という意味でも使用している。

ラトゥーシュによれば、<脱成長>の中心価値は「分かち合い」である。このことが経済的な豊かさを分かち合うことを意味するのはむろんであるが、より深い次元では、互いの命の価値を尊重したり、経済活動以外の社会活動を行う時間や空間――遊び、ボランティア――を分かち合ったりすることも含まれる。

「分かち合い」っていうと、割り算で、ひとりあたりの分け前は減ってしまうイメージがありますが、京都で生活をしているとちょっとそれは違うことがわかってきます。なんていうか、5割る5が6になるイメージ。まだうまく言えません…(^^;

セルジュ・ラトゥーシュさんというおもしろい哲学や思想を作り出そうとしている素敵なおじいさん(といったら失礼かな)研究者の主張を凝縮した良記事だと思います。4本の記事の中で特におすすめ。

◆ 「セルジュ・ラトゥーシュ、<脱成長(デクロワサンス)>を語る ― 経済成長を中心としない社会を目指す」 訳・中野佳裕

2010年7月にセルジュ・ラトゥーシュさんが来日した際の講演を、中野佳裕さんが訳したものです。

先日の勉強会でも出てきて、数近化の正当性ばかりが議論されていたのがもったいなかった「Happy Planet Index」という指標が出てきます。

Happy Planet Index

イギリスのNew Economic Foundationという市民はシンクタンクが作成した、国民の幸福度を測る指標。この指標を見てみると、以下のような事実がうかがえるとのこと。

つまり、過去四〇年にわたる先進国の経済成長は、社会生活や自然環境の多大なる犠牲の上に成立しており、人々は生活の充足感を次第に失っているのです。
経済成長を望んでいるのに、経済成長が起こらない。たとえ経済成長が起こったとしても、わたしたちの生活の円満充実とは結びつかない。これが、現在わたしたちが経験している絶望の道です。

ふむ。で、脱成長とは…

人類生存のために<脱成長>が提唱するのは、経済の帝国主義から抜け出そう!ということです。

「つつましくも豊かな社会」を提唱するもので、単に節制を強いて、文化的な豊かさを犠牲にして景気回復を図るものではないとのこと。単にストイックなだけな節約なんて楽しくもないし、美しくもないもんね。そんなの嫌です。で、ここも何となく言わんとしていることがわかりつつ、うまく数値で示したり、私自信の言葉にできずはがゆいところ。

ただ、ちょっとラディカルすぎというか、若干の宗教っぽさというか、そいう雰囲気を感じて、むずむずする部分も、正直なところあります。

人間の社会関係が資本主義市場経済の論理に支配されることなく、贈与やその他の相互扶助のネットワークに支えられた非貨幣で非市場の生産・消費様式に支えられた社会のことです。

うむむ。相互扶助は大事。だけれど、完全に現行のシステムを入れ替えられるのだろうか。むずむず。

最後の方には、あ、それそれ!!!という部分も。

経済成長中心主義の社会は、別の言い方をすれば労働中心社会です。人々は生活のほとんどを労働に費やさねばならず、そのために文化的で市民的な活動を行うことができません。

会社で働いてみて、学生に戻って、フリーランスで仕事をして、少し時間に余裕ができて実感しています。そんなこんなで、根本的に思考を転換する必要があって、経済中心主義から脱して、社会活動に参加して、社会を自らの手で作っていくのがよいのじゃなかろうか、日本社会を作るのは日本に暮らすみなさんですよと締めくくられています。

◆ 「トランジション・タウンの冒険 ― <脱成長>社会への「移行」はすでに始まっている」 文・加藤久

先の2つの記事にも、ちらちら出てくる「トランジション・タウン」という言葉。私は最近はじめて耳にした言葉ですが、一体全体何じゃらほい。日本語に直訳すると「遷移町」「推移町」(??)この記事を執筆された加藤さんが監事を務めるNPO法人トランジション・ジャパンのウェブサイトから定義を引用してみます。

http://www.transition-japan.net/

トランジション・タウンとは、ピークオイルと気候変動という危機を受け、市民の創意と工夫、および地域の資源を最大限に活用しながら脱石油型社会へ移行していくための草の根運動です。

パーマカルチャーおよび自然建築の講師をしていたイギリス人のロブ・ホプキンスが、2005年秋、イギリス南部デボン州の小さな町トットネスで立ち上げ、3年足らずの間にイギリス全土はもちろんのこと、欧州各国、北南米、オセアニア、そして日本と世界中に広がっています。

新しい価値観に基づく町に移り変わりゆこう的な草の根運動。この運動が目指すところが、具体的に記事中に書いてあるので引用します。

地域ベースで食をエネルギーの自給自足をできる限り推し進め、脱化石燃料の社会を草の根から作り上げること

ふむふむ。京都の暮らしを通して、少し感じることと近いです。神奈川県相模原市藤野や、よく釣をしにいく葉山で盛んだそうで、いつか見に行きたい。そんなトランジションタウンの数は、いまや全世界で1000以上にのぼるとか。

この記事の中では、ピークオイルを経験し、危機に陥った事例として、キューバが出てきます。ソ連崩壊と共に、庇護を失い、西側諸国からの支援も断たれたキューバが都市農業で立ち直りました。以前、京都の大人も遊ぼう会(勝手に命名)で「サルー!ハバナ ― キューバ都市農業」というドキュメンタリーを見たのですが、見事に都市の中に畑があるある(^^;

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トランジション運動は、抗議の行進というよりも、むしろパーティーだ」by リチャード・ハインバーグ(エネルギー問題の専門家)とのことで、これ、大事ですね。京都で実感しつつある「つつましくも豊かな生活」って、特に苦しいものでもなく、楽しいです。

しかし、それを悲観的に捉えるのではなく、ある時は石油を使わない未来を理想郷としてイメージしながら、時には、再生可能エネルギーでのエネルギーの時給をゲーム感覚で計画する。そんな「楽しさ」がトランジション運動には備わっているのだ。

高城剛さんの危機と言われる現状を楽しくハックして乗り切ろう的な思想ともつながりそう。上映会やイベントを開催して、賛同者を増やし、コミュニティーを築いていっているで、「グローバリゼーションが陽の光の下で壊した社会関係の網の目を夜半に紡ぎ直す」(by セルジュ・ラトゥーシュ)活動とのこと。グローバルも大事だし楽しいけれど、ローカルも大事だし楽しいよね、最近そう思います。

記事の最後に素敵な一節があったので引用します。

豪華な食材を使った暴力的な食事から、質素だが愛情を込めて作られたごちそうへ。音楽が不足すれば自分たちで演奏し、歌えばいい。

(^^)

◆ 「『持続可能性(サステナビリティ)』」 文・阿部健一

最後は、総合地球環境学研究所教授の阿部健一先生の記事。冒頭の勉強会を紹介してくれた友人が、以前、総合地球環境学研究所の研究に連れて行ってくれて、先生のお話を聞く機会があり、楽しい時間を過ごしたこともあり、おお!とわくわく読みました。

「持続可能性(サステナビリティ)」ってよく聞くけれど、プラスチック・ワード(広く使われているけれど、定義があいまいで、意味がわからない言葉)では?という記事。たしかに何がどう持続可能なんだ!と突っ込みたくなる語ですよね(^^;

記事中では、この言葉が普及した経緯が説明されています。時系列に並べてみます。

  • 1980年 世界環境保全戦略ではじめて「持続可能性」という言葉が登場する
  • 1987年 開発と環境に関する世界委員会(ブルントラント委員会)の報告書「人類の共通の未来(Our Common Future)」から広く使われ始める
  • 1992年 リオ・サミットで中心課題のひとつとなり、行動計画「アジェンダ21」には「持続可能な」という言葉が氾濫する
  • 2002年 ヨハネスブルクで「持続可能な開発に関する世界首脳会議」が開催される

「持続可能性」という言葉は、30年ほど、使われ続けているようです。

このプラスチックワードの気持ち悪さを指摘したのが、動物行動学者で、総合地球環境学研究所の初代所長を務めた故・日高敏隆先生で、「未来可能性」としてはどうかと。その後、阿部先生はこの言葉を使い始めるのだけれど、概して、いわゆる「先進国」の研究者からは難色をしめされるものの、途上国の研究者からは受けはいい。私はまだこの「未来可能性」という言葉の意味するところを正確に把握できていなくて、「持続可能性」という言葉を聞くたびに思い出して、理解を深めたいといったところです。

阿部先生が25年に渡って調査を行ってきた泥炭湿地林に移住してくる人々を引き合いに出して、経済格差を目にしたら、「持続可能性」なんて欺瞞ではないかという部分も興味深いです。まず、「経済的な発展」を遂げた国について書かれた部分と引用します。

ヨーロッパの都市と農村の景観中に、しばらくでも身をおいてみると、これ以上の生活の利便性や物質的豊かさは不必要ではないかと思える。目に見える開発よりも、別の形の発展を模索する段階にある。先進国では持続可能性はきわめて魅力的な言葉だ。

一方、いわゆる途上国については、以下のように書かれています。# 具体的な描写については、実際記事を見てください。とても興味深く読めます。

少しでもましな生活を求めて、やってきた人々。ここでは持続可能性など絵空事に思える。後先を考えない森林の利用の非を彼らに負わせるのは、本質的なことを棚上げすることにほかならない。問わなければならないのは。経済的不平等であり、貧しい物をより貧しくしている世界経済システムのありようである。

以前は、途上国の人もがんばればいいのに、と単純に考えていました。私は、たまたま恵まれた環境に生まれただけなのにね…。そんなことを思いだしつつ読むと、何となく今世界に存在するひずみみたいなものを感じずにはいられません。そこにアプローチするのが<脱成長>という根本的な思想の転換?私たちのためにも多分それは必要なことだと思います。


長くなってしまいました…(^^; たくさん考えるきっかけをいただいた勉強会と『kotoba』2011年1月号に感謝です。また近くで開催されることがあったら覗きに行きたいです。

kotoba (コトバ) 2011年 01月号 [雑誌]

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成長の限界 人類の選択

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