何故わが国からGoogleやAppleが生まれないんだ!・・・なんて考えていなさそうな人たち

ヨーロッパの人たち。

いろいろな国の人を見て、話を聞いて、先日、"「低炭素経済」を考える1"で、中野佳裕さんがセルジュ・ラトゥーシュさんの思想に関する話をしているのを聞いて、ふと、そんなことを思いました。根本的な思考の違いもあるようで、具体的なHow toよりも、どうしてそうするのかという哲学を大切にするという話も出て、何だかそもそもの考え方が違いそうだぞと。

【イベント紹介】セルジュ・ラトゥーシュ研究者の中野佳裕さん(立命館大学)をお呼びして「低炭素経済」を考える学習会「今、必要なのは『緑の成長』か?『脱成長』か?」(12月23日、京都) - Drop the Debt ! ジュビリー関西ネットワーク(Jubilee Kansai Network)

中野さんが訳したセルジュ・ラトゥーシュ著『経済成長なき社会発展は可能か?――〈脱成長〉と〈ポスト開発〉の経済学』の中で、「時間がない人もここだけは読むべし!」という第一部の結論「<脱成長>(デクロワサンス)は人間主義か?」(p123-126)を読むとさらにそう思う。何か彼らには別の価値観みたいなものがありそうで、それにとても興味があります。ヨーロッパってくくりも随分大雑把だけれど(^^; 土曜日は早く店じまい、日曜日は余裕で休業とかとか。単に「スロー」なのではなく。そういうまだよくわからないものを無意識の内に求めている気がします。

わが国のように「何故GoogleAppleが生まれないんだ!?」やいやい!ってしている国って実は少ないのかも。もちろん、他の国の人とこういう話をしたことはあるけれど。どうなんでしょう。

定常状態の環境にいると、あまり疑うことをしないけれど、時に「変?」と思ってみるのも大切そう。旅はそれを可能します。旅に出たいな。

セルジュ・ラトゥーシュ著 『経済成長なき社会発展は可能か?――〈脱成長〉と〈ポスト開発〉の経済学
第一部・結論「<脱成長>(デクロワサンス)は人間主義か?」(p123-126)より


 市場の全体化の地球規模での勝利以外の何ものでもないグローバリゼーションと対峙する今日、われわれが構想し求めなければならないのは、経済的価値を中心的な価値(あるいは唯一の価値)とはしない社会、つまり経済を究極の目的としてではなく人間生活の単なる手段として位置づける社会である。消費を常に増大させることを前提とするようなこの狂気じみたシナリオを放棄しなければならない。このことは、地球環境の決定的な破壊を回避するためだけではなく、現代に生きる人間の心理的かつ道徳的な貧困から脱出するためにも必要である。世界の変化がわれわれを憂鬱な状況に追いやる前に世界を本当に変革するために必要なことは、まさにわれわれの想念の根元的な脱植民地化と精神の脱経済化である。物事がこれまでとは異なる形になるためには、そして真に独創的で斬新な解決を構想するためには、物事をこれ前とは違った方法で見つめることから始めなければならない。重要なことは、生産・消費の拡大とは異なる意味を人間生活の中心に置くことである。地球にのしかかる最大の脅威は、おそらくは巨大機械(メガマシン)の錯乱がもたらす破壊の脅威ではないであろう。むしろわれわれの盲目さと非力さである。共和制末期の古代ローマがそうであったように、「われわれはもはや己の悪徳にもその治療にも耐えることができない」のである。われわれは病気を正しく診断することを拒否し、兆候を覆い隠すことに満足している、われわれが治療を要求しているのは、このような悪徳の栄えそのものに対してである。従来の開発政策に反対して持続可能な発展、地域開発/地域発展、社会開発、あるいはオルタナティブな開発を提案することは、結局のところ、ウイルスを保持することで患者の苦しみをできる限り長引かせようとすることである。つまり、成長は異常なウイルスであると同時に麻薬でもある。マジード・ラーネマが述べているように、「土着の自律空間に入り込むために、人類最初のホモ・エコノミクスは今でも忘れがたい二つの方法を採用した。一つは、HIVという免疫後退ウイルスの作用であり、もう一つは麻薬密売人によって用いられた手段である」。つまりは免疫機能の破壊と新しい欲求の創出が必要なのである。
 ジャック・エリュールによれば、われわれの同時代人たちに「技術体制」という意味での(そして付け加えるならば開発技術としての)技術を放棄することを要求することは、石器時代の人間に己の周囲にある森林を燃やすことを要求するようなものである。われわれがすすんで開発、自らの生活様式、そしてそれらに付随する技術を放棄することが起こりえないことは火を見るよりも明らかである。しかしながら、われわれが、最後の森林とそこに未だに生存している最後の「石器時代の」人間を燃やすことを止めるかどうかは定かではない。
 それでは地球にとって、そして人類にとって、希望も未来もないのだろうか。大文字の歴史の教訓は楽観主義的な展望を何も持ってはいないし、技術経済システムの錯乱に対する良識の勝利、そして私的所有者のエゴイズムと支配者層の権力志向に対する共愉の倫理の勝利は、実践理性の信念と説得の力のみに立脚してこそはじめて確実なものとなるであろう。ただ、利潤の際限なき追求によって動かされる合理性の逸脱は、憂鬱にさせるものではあるにせよ、問題提起の機会を生み出すような惨禍をもたらす。日常生活における科学技術の数知れないリスクは言うまでもなく、一昔前のチェルノブイリ原発事故、今日の狂牛病、そして明日の温室効果は、省察の補助線となるものである。諸々の惨事から教訓を得ることは、緊急事態およびオルタナティブの勝利に必要な条件を構成する想念の必然的な変化を引き起こす。
 〔北米大陸〕西部の太平洋岸のブリティッシュ・コロンビアの先住民たち(クワキウルト族、ハイダ族k、シムシィアン族など)は、鮭は彼らと同じような生物であり、海の底で「ティピー」を張って部族単位で生活している、と考えている。鮭は冬には自分たちの地上の兄弟のために自らを供犠として捧げにきており、鮭の服を纏って河口に向かって泳いでくる、と考えられている。鮭が河を遡行する季節には、先住民は最初の鮭を賓客として迎え入れる。彼らは祝祭を開催してその鮭を食べる。鮭の供犠は一時的な借り物以外の何ものでもない。先住民は、食べられた来客の再生を願って背骨と食べ残しを海に返す。このようにして鮭と人間の共存と共生が満足いく形で持続してきたのである。白人がやってきて各河口に缶詰工場を設立したことがきっかけで、利潤競争が鮭の乱獲を促した。先住民は、白人たちが儀式を重んじなかったために鮭が消え去ったと判断した。誰がこれら先住民に罪をかぶせることができようか。人間が世界に自らを立脚させるためのこのような義務はほとんどの社会で確認される。シベリアでは人間は、自らが受け取ったものを動物たちに返済するために森の中で死ぬ。このような態度は、人間と世界のその他の存在者との間にある互酬性を意味するものである。地球が人間に自らを与えるように、人間も地球に自らを与える心積もりができているのである。自然の再生能力を否定し、天然の財産を搾取すべき一次資源に還元し、自然資産を「再び湧き出ずる生命の泉」(ressiourcement)と見なさないで、近代は人間と自然との間の互酬性を消滅させた。この地球で抑圧され、鎮圧され、辱められているすべての人々は、経済発展の奇跡や幻影がどのような装飾をまとっていようとも、それらが隠しているものを必ずしも望んだりはしない。彼らが切望していることは生存することである。経済学的ならびに発展主義的な見解が考えるような、カロリー単位で計算された単なる生物学的ないし物質的な生存ではなく、人間的な活力という点からみた文化的な生存のことである。排除されている人々は、可能であれば「良く」生きることを夙に望んでいる。それは、彼ら自身の価値観、規範、文化的選択肢にしたがって、そして最も高い国民総生産を追及する競争に囚われたり潰されたりすることではなく、尊厳ある生活を営むことを意味する。つまるところ、これはまた、北側諸国の一部の人々によって共有される深遠な願いではなかろうか。地域主義と組み合わさった共愉にあふれる<脱成長(デクロワサンス)>が実現しようとしているのはこの希望である。